公衆浴場とイレズミ議論の問題点

公衆浴場で入れ墨が入った人をお断りするのはありなのか?なる議論を見たことがあると思います。あり派の意見として、入れ墨は「背中にガッツリ和彫り」に代表されるように日本国内では文化的にスジモンを現すものだから他のお客さんが恐怖してしまうことを防ぐため必要であるとし、なし派の意見としては海の向こうでは入れ墨がオシャレタトゥーに代表されるちょっとした思想の表明ににすぎない地域も存在するので、グローバル社会の考えからお断りするのはおかしい、となっています。今回筆者は、そもそもこの議論自体に複数の問題があることを指摘したいです。

なお、筆者はどっちの立場の人間であるかは表明しないものとあらかじめ宣言しておきます。また、あたかも入れ墨がガッツリ和彫りとオシャレタトゥーの2種類に分けられるかのような書き方をしているが、これは便宜的なもので実際はぜんぜんそんなことないということもつけ加えておきます(後述参照)

 

問題点1.議論に参加資格のない人が平気で資格ありますみたいな顔して議論に参加している

言葉の定義や前提を揃えないまま議論がスタートして、議論という名のドッジボールにしかなっていない現場をみたことがあるでしょうか。ネット上で行われる議論のうちほとんどがこれに該当するし、なんなら現実の議論でも少なくない現象です。もちろん今回の公衆浴場と入れ墨議論も例に漏れません。では今回の場合前提が揃っていない人、つまり議論に参加する資格がない人とは何なのか?それはふらっと銭湯に行ったら背中にガッツリ和彫りが入った恰幅の良いおじさんが2,3人いた経験を持ち合わせているのか?です。これはあり派が危惧していることの本質だし、この経験を持たずして議論に参加しているのは説得力ないよねと指摘されても反撃できないでしょう。なんならあり派の人間ですら言うほどこの経験をしていないんじゃないかとさえ想像します。もちろんだが筆者は池袋と錦糸町の二か所でこの経験をしています。

 

問題点2.背中にガッツリ和彫りとオシャレタトゥーを区別することが実質不可能

この議論のよくある妥協点として背中にガッツリ和彫りはNGにしてオシャレタトゥーはOKにしたら丸く収まるんじゃないかっていうのがあります。二つとも原理的なのは同じだから区別するのが難しいし、だからといってめんどくさい定義づけを有識者の見解で完成させたとしても、それってスジモンの人たちも納得できるんですか?もしくはその区別の微妙なラインを突いてくる人が浴場にクレームつけてきたら誰が対応するんですか?と余計にめんどくさい問題を生み出してしまいます。

 

まとめ 

浴場の入れ墨問題は、こういった相当めんどくさい事情と、自論は垂れ流すけど他人事だから責任は持たない問題が複雑に絡み合って答えが出ないし、そのくせ浴場というなじみ自体はあるコンテンツなので、語る資格が乏しい認識を持たぬまま自論を展開する君が後を絶たないのです。